(本記事は弊社の音声コンテンツであるBEt Radioの内容を元に執筆しております)「正しい」は、なぜ個性を持てないのか正論というのは、三角形の頂点のようなものです。論理的に正しく導き出せば、誰が考えても同じ答えに行き着く。だからこそ、そこには発信者の個性が乗りません。かつては、論理的に正しい答えを導き出すこと自体が、高い専門性を必要とする難しい仕事でした。優れたコンサルタントが提示する戦略やコンセプトには、無駄を削ぎ落とした美しさがあり、対価を払う価値がありました。しかし今、フレームワークや成功パターンが多く生み出され、それをインプットしたAIが大量の「正しいアウトプット」を生み出せる時代になりました。市場には「間違ってはいない」が「驚きのない」企画が溢れていってます。正論は「無難」とセットなのか|ギャンブルの期待値から考えるここで一度、視点を変えてみます。「正論は無難だから面白くない」という説明は、本当に正しいのでしょうか。期待値の観点だけで見れば、ギャンブルで最も合理的な行動の1つは、回数を重ねずに全額を一発勝負に投じることです。回数を重ねるほど、結果は統計上の「胴元が勝つ」仕組みに収束していきます。つまり、最も期待値が高い選択は、実はかなりリスキーな選択でもあります。これを企画の世界に置き換えると、「正論=無難だから面白くない」という説明には、ズレがあることになります。本当にロジカルに正しい道を突き詰めれば、それはリスクを取る冒険的な道になることもあるはずです。では、なぜ実際の企画の現場では「正論=無難」というイメージが強いのか。答えは、多くの人が「正しい」と感じられるものには、リスクの低さが前提として組み込まれているからです。一発勝負で100万円を賭けてルーレットで「赤か黒か」を選ぶことを、期待値だけで正しいと判断できる人はほとんどいません。リスクへの恐怖が、判断を支配してしまう。つまり「正しさが面白くない」のではなく、「多くの人にとって正しいと感じられる選択肢は、リスクの低いものに偏りがちだ」という構造があります。正論が選択肢を減らす|「収束」という現象正論をなぞる戦略には、もう一つの副作用があります。選択肢の多様性を失わせるという点です。セオリーに従って進めると、たどるべきルートやチェックすべき指標があらかじめ決まっています。誰がやっても似たようなプロセス、似たような打ち手にたどり着く。これは、ある種のスポーツに似た構造です。トップ選手のプレーには痺れますが、草野球の選手がそのプレーを真似ても、それは劣化版にしかなりません。しかも、そもそも勝てない。正解を取りに行くという行為は、選択肢を絞る方向に力が働きます。そして人は、見たことのない選択や予測できない展開にこそ、ワクワクを感じます。選択肢が収束していくほど、その「期待」の余地が減っていく・・・これが、正論が面白くなく感じられる構造の核心であると考えます。予測できることは、本当に面白くないのか一方で、ここには矛盾も存在します。「展開が読めると面白くない」という感覚と、「予定調和が楽しい」という感覚は、どちらも実在します。ライブで観客全員が同じタイミングで盛り上がるとき、その一体感は予定調和そのものです。漫画を読み続けて「次の展開はこうなるだろう」とパターンが見えてきても、面白さが失われないこともあります。この矛盾を解く鍵は、変数の有無にあります。完全に予測できる展開の中でも、「思った通りに気持ちよく決まる」という快楽はあります。一方で、その快楽だけを繰り返し味わうと、やがて虚しさに変わっていきます。子どもの頃、ゲームの中で「こう操作すれば必ず決まる」という必勝パターンを見つけて無双する時間は楽しいものですが、それを繰り返すうちに、いつしかそのゲーム自体に飽きてしまう。インセンティブが「気持ちよさ」だけになった瞬間、刺激が減っていきます。つまり、面白さは「安心」と「刺激」のバランスの上に成立しています。安心ばかりだと退屈になり、刺激だけだと疲労する。このバランスの取り方が、人によって、また状況によって異なるということです。なぜ若い頃はセオリーが楽しかったのか新規事業や新商品の企画において、セオリーや成功パターンに沿った進め方が「最初は楽しかった」という経験を持つ人は多いはずです。その理由は単純です。経験が浅いうちは、見たことのない景色がほとんどだったからです。セオリーという武器を手にして初めて、自分の企画をアウトプットできるようになる。その武器を使って結果を出していく過程そのものが、新鮮な経験でした。しかし経験を積むにつれて、セオリーを使って予測できる結果のパターンが増えていきます。チャレンジのはずが、既視感のある景色をなぞる作業になっていく。新規事業に「社会実験」のような、何が起きるかわからないという要素を求める感覚は、こうした経験を経た先に生まれるものです。「正しい」かどうかは、見る人の経験量で変わるここで重要な視点があります。「正しい」「面白くない」という評価は、絶対的なものではなく、見る人がその景色を「すでに見たことがあるかどうか」に強く依存しているという点です。学生時代の作品制作を例に考えてみます。本人が楽しんで作った作品を、同級生は面白いと評価する。しかし指導教員からは「どこにでもある」と一刀両断される。これは、教員が多くの作品を見てきた経験から、似たパターンに当てはめてしまっているからです。一方で、その作品を初めて見る同級生にとっては、新鮮な驚きがある。新しいかどうかは、誰にとって新しいかという視点抜きには語れません。業界をずらした提案、世代をずらした提案がうまくいくことがあるのは、この構造を利用しているからです。たとえばQRコード決済の普及は、決済技術として真新しいものではありませんでした。中国で当たり前だった仕組みを、国内のクレジットカードやタッチ決済が普及した市場に持ち込み、幅広く導入し、根付かせたことに価値がありました。新しさの基準は、技術そのものではなく、受け手の経験にあるということです。「君の言ってることはすべて正しいけど、面白くない」という言葉の正体「君の言ってることはすべて正しいけど、面白くない」・・・博報堂の雑誌『広告』で表現されたこの言葉を改めて見直すと、ある共通点に気づきます。これは、経験を積んだ人や指導者が、経験の浅い人に向けて使う言葉だということです。つまり、収束した世界をすでに知っている人からすれば、その正論は既視感の塊にしか見えません。しかし、その収束した世界をまだ知らない人にとっては、同じ言葉が新鮮な学びになる可能性があります。評価する側の経験量が、評価そのものを規定しているのです。加えて、もう一つの論点があります。それは、「その言葉が、本当にあなた自身の言葉なのか」という問いです。セオリーや一般論をそのまま組み上げただけの発言には、借りてきた言葉特有の既視感が伴います。一方で、自分自身の実際の経験や試行錯誤が混ざった発言は、同じ結論であっても聞き手に「気づき」を与えます。語られる結論ではなく、そこに至る経験の質が、面白さを左右しているのです。企画者として、この構造をどう活かすか新商品・新規事業の企画において、「正しいけど面白くない」と言われないためにできることは、大きく2つあります。ひとつは、自分自身の実体験や試行錯誤を企画に乗せることです。借りてきたセオリーの組み合わせではなく、自分が見てきたこと、感じてきたことを土台にした提案は、結論が似ていても受け手の反応が変わります。もうひとつは、誰にとって新しいかを意識することです。業界の常識をずらす、世代の感覚をずらす、市場をずらす——新しさは技術そのものよりも、受け手の経験との「ギャップ」から生まれます。誰も見たことのない景色を作る必要はありません。誰かにとって見たことのない景色であれば、それは十分に新しい提案になります。正しさを追求すること自体は間違いではありません。問題は、正しさだけで企画を完成させてしまうことです。安心と刺激のバランス、誰にとっての新しさか、そしてその提案にどれだけ自分自身の経験が乗っているか、この3点を意識することが「正しいけど面白くない」企画から抜け出す手がかりになるはずです。こういった企画のコンテキストを引き出し、整理、そして新商品・事業企画を具現化していくお手伝いをBEtでは行っております。ぜひお気軽にご連絡ください。